細谷十太夫の陣羽織
『歴史読本』という月刊雑誌がある。98年12月号の特集は「戊辰大戦争」であり、そのなかに、特集ドキュメントとして「戊辰戦争 幕末諸隊の戦い」があった。仙台藩の「諸隊」は額兵隊、衝撃隊、見国隊の3隊が取り上げられた。
前2隊は知っていたが、見国隊は初めて聞く名である。全体の執筆依頼は仙台郷土研究の副会長逸見英夫先生にあったもので、先生から衝撃隊について書かないかという電話をいただいたのは、この年の7月末であったか、8月初めであった。 見国隊は初めて聞く名、と書いたが、ほとんど資料がなく、先生はその資料のない組織について書くという、いわば貧乏籤を敢えて引き、先生なら一晩で書きあげることができるであろう衝撃隊は後進に譲られたもののようである。 受話器を持ちながら、仙台市青葉区子平町の龍雲院境内の巨大な碑と古代中国の哲人めいた石造座像を思い浮かべていた。 同院を訪ねたのは、同院所蔵の油彩林子平像と同じ境内にある六角堂内に納められている木彫林子平像(翁朝盛 作)の写真撮影のためで、その折、巨大な碑や石造座像も見たことを思い出していたのである。 仙台藩の戊辰史のバイブルともいうべき藤原相之助『仙台戊辰史』は少なくとも衝撃隊執筆には頼りない。とりあえず夏期休暇は福島県立図書館を訪ね、史誌の資料篇を漁った。 隣県の図書館に行ったというのは、はるか遠くに新設された宮城県図書館に対する呪詛ではない。衝撃隊の戦場が福島県だったからである。いくつかの史誌に衝撃隊に関する情報はあったが、それによって戦闘を再現するには土地勘もなく、なにより力不足であった。 仙台市民図書館の郷土室を訪ねたのは隊の結成から解隊までの経過をまとめたものがあるのではという期待からであった。ここに勤務する渡辺洋一さんからもアドヴァイスが得られるだろうという期待もあった。 来客を見送り戻った渡辺さんが、ぴったりのものがあるといって出してくれたのが江北散人編『烏組隊長細谷十太夫』である。昭和6年に刊行された80ページほどの冊子である。 衝撃隊は、むしろ烏組の別称で知られている。これを組織したのが細谷十太夫である。この烏組の沿革は次のようなものである。慶応3年、細谷は志願して近隣諸藩の動向を探索する任についた。武士という肩書に対するこだわりが希薄だったようで、任務遂行には現地の博徒や目明かしたちに協力させている。 4年5月、奥羽越の諸藩が同盟を結んだことにより、新政府軍との対決は決定的となり、もはや奥羽諸藩の動向よりは江戸の動きをさぐる必要を痛感し江戸に向かった。その途次、新政府軍に敗れた白河城守備の仙台藩士のみじめな姿を目のあたりにする。 武士に失望した細谷は街道筋の博徒や無頼の徒らを集めて衝撃隊を組織した。興味深いのは仙台領内で隊員を募集したわけではなく、細谷にとっての他国で組織したことである。 小人数の部隊であるため、地の利を活かした夜間のゲリラを専らとしたので、その装束は黒の筒袖小袴、紺の股引脚絆・足袋・鉢巻きを用いた。 夜襲は功を奏し新政府軍を震憾させるが、それに伴って正規軍に組み込まれての行動を余儀なくされたのである。 『別冊歴史読本』という雑誌がある。99年12月発刊の同誌は『幕末維新三百藩諸隊始末』というタイトルで、再び衝撃隊について書く機会があった。前回の約倍の量であるため、気になっていた隊員の構成について考えて見た。 各藩に、これまでなかった「隊」が次々に編成されたのは、銃火器を主体とした戦闘に対応するものであったが、衝撃隊はこうした動きからすれば逆行するものであった。 前述したように、博徒や無宿無頼の徒を集めて組織したといわれており、最大100名近い数を数えた。名前がわかるのは約30名、そのうち17名は戦死者、負傷者名簿のなかで見ることができるものである。そのほとんどは地名ではなく、苗字と考えられる名を冠している。立ちあげは確かに博徒や無宿無頼の徒を集めたものであったかもしれないが、それだけでは無理だったのではないかという疑問が残った。 そして、もう一つの極めて重要な問題があったのだが、このときはその重要性に鈍感であった。
三本足の烏といえば、熊野山中で神武天皇を道案内をしたヤタガラスである。同じ三本足の烏をペットとする部隊が、天皇の軍隊を標榜する軍隊と戦うのである。錦旗こそないが…、という細谷の精一杯の意地が感じられるのである。 それはともあれ、展示室で復元された陣羽織をみて、細谷十太夫にからかわれたのではないか、という疑問にかられた。そして、目を閉ざしていた問題点に気づかされた。 衝撃隊は5月後半に結成され、衝撃隊として活動したのは7月初めまでの一月半である。その後は他の部隊に組み込まれて、守勢一方の戦いを余儀なくされた。つまり、衝撃隊が衝撃隊としてありえたのは一月半なのである。 このことを念頭において陣羽織を見る。まず、これを作るのにどれくらいの歳月と費用を要したのだろうという思いに駆られる。刺繍を施した陣羽織と短衣が一ヶ月やそこらでできるものだろうか。しかも、短衣は綿が詰められているのだろうか、防弾を意識したのではと思えるような厚さである。これが真夏の着物だというのである。俄かには信じられぬ思いである。さらに、隊員の装束を揃える資金はどのように調達したのか、という現実的な、散文的な問題が浮かび上がる。 このことを見極めなければ、この衝撃隊の本当の姿は見えてこないと思うようになっている。 |