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元日本軍捕虜のためのアジアでの働き

 第二次世界大戦中に日本軍捕虜となった元英国軍人とその遺族や家族と日本人との和解に力を注いでいる日本人女性、恵子・ホームズさんと知り合う機会がありました。
 恵子さんはイギリス人と日本で結婚、その後ロンドンに渡り現在もロンドンに住み14年ほど前から元日本軍捕虜だった元イギリス兵と日本人との和解のための活動に取り組んでおられます。恵子さんの生まれ故郷の和歌山県紀和町には戦争中、銅山がありそこにはシンガポールやその周辺国から送られてきたイギリス軍の捕虜兵達が工夫として使役についていました。そこでの捕虜兵達への扱いは戦争中の残酷物語として名高い泰麺鉄道建設(タイとビルマをつなぐ鉄道工事)などに比べると人道的だったようですが、それでも16名のイギリス兵が事故や病で死亡しました。恵子さんが1988年に紀和町に里帰りをした時に、紀和町で死亡した捕虜兵達のお墓が建てられていることを知りました。りっぱに建て替えられた元捕虜兵達のお墓を目にした恵子さんはたいそう心を打たれ、是非イギリスにいる遺族や生存している元捕虜兵達に伝えたいと思いました。そして紀和町に招待してりっぱに建て替えられたお墓を見てもらいたいと願い、イギリスに帰った恵子さんはまず元捕虜兵達を探し出すことから始めました。元捕虜兵との接触は思いがけなく難しく(元イギリス兵や捕虜兵達は私達日本人の想像を上回る恨みや傷を持っていて、日本人の姿を見ることさえ毛嫌いしている人が大勢いる)様々な困難や批判、中傷、攻撃を浴びながらも恵子さんは一人でこの活動に取りかかり、多くの元捕虜兵の日本人に対する今なお深い傷や恨みを和解へと導いています。

 イギリスで14年近くこの仕事に携わってきた恵子さんは、和解の仕事をイギリス以外の、特に、東南アジア、中国にも広げようと今回5度目のシンガポール訪問をされました。今回のシンガポール滞在中に恵子さんはできるだけ多くの元日本軍捕虜兵、日本軍占領時代に傷を受けた一般の人達に会って和解の働きをしたいと希望して来られました。
 幸いなことに、私も恵子さんと一緒に多くの和解のための会合に出席することができました。シンガポールで持たれた和解のための会合では、元日本軍捕虜兵の体験、一般市民の体験、その遺族や家族の人達から、若い世代の人達が聞かされてきた事柄の証言のような形で、一人ひとりのお話を聞きました。本や資料から得ていた知識と重なるものもありましたが、まだまだ日本軍占領下のシンガポールでどのようなことが起きたのか、知らない、知らされていない事柄を数多く聞くことができました。

 日本軍三大汚点として有名な、シンガポール華人に対する抗日分子一掃が行われた頃の証言が続きました。殴る・蹴る、ホースを口に突っ込まれ水を大量に飲まされて膨れ上がった腹を衝かれる、水の中に沈められ窒息死寸前に引き上げられ息を吹き返すと即沈められる、又その繰り返しの拷問に合う、炎天下に丸2日飲まず食わずで検問を受ける、憲兵隊と目が合うと殴る・蹴る、そのままチャンギビーチに引かれて行き虐殺、抗日分子への見せしめのために、生首が鉄道の橋げたにいくつもぶら下げられた、チャイナタウンでもそうだった、ブキティマ地区でもそうだった、などなど既に知っていた事柄でしたが、実際に体験した人からの証言を聞かされるのは息苦しくこちらが拷問を受けているようでした。
 シンガポールでイギリス軍が降伏したあと、日本軍はイギリス、オーストラリア、シンガポールなどの兵士を捕虜として捕らえ、過酷な労働を課したことは多くの人の知るところですが、その家族も捕虜として、赤ん坊から老人まで4000人ほどをシンガポールのキャンプ内に日本軍降伏までの4年間閉じ込めていたと言います。捕虜の家族ですから残されているのは、女、子供そして年寄りだけです。キャンプ内での生活環境は食べ物も十分ではなく、人一人が辛うじて寝起きできるだけのスペースが与えられ、そこで一日全ての行動を済まさなければならなかったそうです。
 日本兵は家族捕虜の女性達に野蛮で屈辱を与える行動をとったことも証言されました。12歳の時から15歳になるまで一般捕虜としてキャンプに強制収容されていた現在70代になる女性が、その収容所で母親が日本兵に引きずり出され屈辱を受けたと涙ながらに証言していました。母親の恥になるから、今日まで誰にも言わなかったと言っていました。犠牲になったのは彼女の母親だけではなかったこと、そして、シンガポールの至る所で、マレーシアでもインドネシアでも一般市民の女性に対する日本兵の野蛮行為が行われていたことを証言から知りました。文化国家として経済大国として、アジアのリーダーとして君臨している日本が、僅か56−7年前は、このような野蛮で卑劣な行為をアジアのあちこちで行っていたとは、俄かには信じ難いことでした。何千年も昔の話しではなく、私達の世代の僅か一世代前の日本人がこのような悪を行っていたとは。かつて、韓国、フィリピン、インドネシアの従軍慰安婦の話しも苛立たしい思いで聞かされたものでしたが、まさか、シンガポールの一般市民の女性達まで屈辱を受けていたなどとは、無知をさらして恥ずかしいですが、初めて知ったことでした。

 イギリスとシンガポールは文化の違いもあるのでしょうが、イギリス人は日本が大嫌いと言う話しを聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。勿論イギリス人が全部そうではありませんが…。それに比べるとシンガポール人は日本が大好きです。ことに若い人達は日本が大好きです。しかし、一人ひとりに接していると、やはり占領下時代の体の傷が心の傷となり、癒されていない人、親や祖父母に日本占領下時代の話しを繰り返し聞かされたり、歴史で勉強したりした結果、日本へ憎しみを持っている若い世代の人達がいることも事実です。

 長くなりますが、シンガポール人の日本に対する根の深い怒りを見せられた一つのエピソードを紹介したいと思います。
 私はシンガポール人が12名ほど集まる、ある勉強会に参加しているのですが、できるだけ多くのシンガポール人と会いたいと言う恵子さんを、その会に招待しました。そこで恵子さんはどの会合ででもやっているように自分の活動を説明し、日本軍がシンガポールで行った行為とシンガポール人の傷に対して謝罪をしました。
 その会のメンバーのいつも物静かな60代の女性が恵子さんの話しが終わるや否や、いきり立ち恵子さんの働きが印刷されたパンフレットをテーブルの上に叩き付け、恵子さんに攻撃しはじめました。恵子さん個人に謝罪されることに余計に怒りが起きると言うのです。その女性のお父さんと伯父さんが虐殺されたことを私達は知りました。少女だった彼女の目の前で虐殺されたのかも知れませ。詳しいことを聞くこともできませんでしたが、相当の怒りを抱えていることだけが推察されました。私は突然の出来事といつものその人とは打って変わっての感情の表現にただ驚くばかりでした。しかし、殴られかかったり脅されたり、この14年いろいろなことを経験してきた恵子さんには物の数にも入らなかったようでした。日本に怒りを持っている人に会って、怒りを吐き出してあげることが必要だから、この女性に会えて良かったとは恵子さんの言葉でした。だんだん高齢になって行く、和解を必要としている元捕虜兵や一般市民の人達に一人でも多く会わなければと、睡眠時間も削って国から国へと走り回っている恵子さんです。高齢になって行くのは元日本兵も同じです。敗戦後無事に日本へ生還したものの自分達が犯してしてきた行為に人に言えず苦しんでいる元日本兵が、今もいるのではないかとの思いがめぐります。

 恵子さんのこの活動には、シンガポール人も日本人も全ての人が賛同しているとは言えません。戦争とはそう言うものだ、何も日本軍だけが残虐行為をやったのではない。日本政府は正式に占領していた国に対して謝罪をしたのだから、何も今更、過去の忘れたことを穿り返す必要はない。シンガポール人の若い世代からは、自分達が直接被害を蒙ったわけではないのだから我々に謝罪されても、奇異に感じるだけだ。また、個人で謝罪されても受け入れられない。などの声があったことも付け加えておきたいと思います。
 日本占領下時代に心と体に傷を受けたシンガポール人やマレーシア人に、何か私にできることをしたいという思いをずっと持っていました。今回、恵子さんと多くの会合で出会ってきたできごとから、日本びいきの多いシンガポール人の中にもまだまだ日本に対して怒りを持っている人がいるのだとわかり、シンガポールの永住権を持つ日本人として、何かできることを探したいとの思いが更に強くなりました。