白石川の白幡の堰に若鮎が飛ぶ。よく見ていると、約1mぐらい下流から全力で助泳(?)、助走(?)し、ジャンプする。空中にある瞬間に激しく魚体を屈伸する。それが夏の日にまぶしく光る。若鮎は堰の急勾配の流れを泳ぎ切って上流へ遡ってゆく。若鮎が水を切ってゆく様子は、書家の流れるような草書の筆致をおもわせた。
知人のK氏がご存命のころ、7月に白石川の漁が解禁になると、よく鮎をご馳走になった。K氏はこの地方で「ガラ掛け」と呼ぶ釣法で鮎を獲った。一般的には「コロガシ釣り」か「シャックリ釣り」と呼ばれる釣法である。返しの無い釣針2本を左右に向けて固く縛り付けた針を使用する。道糸の下に約20pの間隔で、この釣針を6〜7本結ぶ。5m〜7m前後の釣竿を利用し、この仕掛けを水中で引くのだ。泳いでいる鮎を引っ掛けるのである。“釣り”という優雅な趣には、やや欠ける(?)釣法だ。 K氏は鮎が居そうなポイント(場所)のやや上流に立つ。釣竿を大きく振って仕掛けを投入し、流れを横切るように岸に向けて釣竿を引いた。K氏の釣りの腕前はかなりのもので、釣果も多かった。それを塩焼きで、ご馳走になる。 まず、鮎を十分塩をまぶして串に刺す。ハラワタ(腸)は抜かない。ハラワタを抜くと鮎の油も抜け、味が落ちるのだという。七輪に炭火を熾して焼くのは奥様である。団扇で煽ぎながら焼くのだから汗だくだ。焼きあがった鮎は串を握り、骨もハラワタも丸ごと食べた。独特の苦みも苔の香り(若草のような香り)が口にひろがる。塩味もほどよく「夏の味覚の王様だぞ!」とのK氏の言葉に合点したものだった。 また、フライにした鮎も大皿に出る。頭ごと食べる。鮎の大盤振舞だった。この鮎は前年の10月〜11月にかけて白石川の中、下流に産卵されたものが成長したのである。卵は2〜3週間で孵化する。稚魚は白石川から阿武隈沿岸の浅場で動物性プランクトンを食べて成長する。年を越して3月ごろには5〜6pに成長して河口に集まってくる。 阿武隈川の水温が10℃を超え、降雨で水かさが増えた日、群れをなして川を遡る。そして阿武隈川から支流の白石川へたどり着く。4月中旬になると川底の石に付いている硅藻類や藍藻類のコケを盛んに食べはじめるのだ。6月、若鮎は20pぐらいまでに成長する。 そして7月1日の鮎漁解禁の受難の日を迎えるのである。そういえば、K氏は防寒用の下着を付け、ゴム製の胸までの胴長を履いて川に入った。真夏の日ざしの中でも長時間川に入っていると、体の芯まで冷えるのだという。 そのK氏が他界して5年になる。長い闘病生活もあった。おもえば、K氏が獲った鮎をご馳走になったのは15年も前のことである。
私は自動車を運転しないから、町内を移動する手段はおおかた自転車である。この自転車だが、下の息子が高校生のころに使用していたもののお下がりだった。が、テェーンが伸び、走行中に外れるようになってしまった。そこで、町内の自転車店から新車を購入した。シルバーグレーのきゃしゃ瀟洒な車体で乗り心地も良い。 私が住んでいる町は、船岡地区と槻木地区に大別されるが、自転車を片道15分も漕ぐと船岡地区の全域に行き着くことができる。白石川の白幡の堰にも、ほぼ15分で着いた。帰りは桜並木の手前から自転車を押して歩いてきた。と、葉桜の下を吹く風になつかしい夏の臭いがあった。熱暑の川から吹き上がってくる風は生ぬるい。その風に“どろり”とした重い青臭さが濃厚にまじっていた。 “少年の日の夏に吹いていた風だ…。”とおもった。白石川で泳ぎ疲れ、桜の木陰で休んでいると、こんな青臭い風が吹いてきた。自転車を桜の樹に立てかけ、土手に腰をおろした。夏草が茂っている。少年の日の夏が鮮明によみがえってきた。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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