年末から年始にかけ、テレビで演歌(歌謡曲)をたっぷり聞いて楽しんだ。大晦日の“紅白歌合戦”は圧巻だったが、歌手の歌唱力や感情導入に酔うには周囲のショーがうるさすぎた。私は“演歌大好き人間”である。とくに、石川さゆり、香西かおり、坂本冬美、大月みやこ、前川清、森進一、五木ひろし、などのファンである。
石川さゆりが唄う「風の盆恋歌」には心引かれる。この歌は富山県婦負郡(ねいぐん)八尾町(やっおまち)で、毎年二百十日にあたる9月1日ごろから3日間開催される“風の盆”で唄われている“越中小原(おわら)節”を題材にした歌謡曲である。 三味線、胡弓、太鼓の伴奏で唄われる小原節は哀調切々とした民謡で、この3日間は八尾町の聞名寺の境内を中心に、町の男女が徹夜で踊る。“風の盆”は風神も祖霊を鎮め、豊作を祈る行事だ。もちろんテレの番組でだが“風の盆”の踊りを見たことがある。小さな灯籠を頭上に、町の男女が哀調の小原節をゆるやかに踊るさまは幻想的だった。 私の町での盆踊りは盂蘭盆(うらぼん)に精霊(しょうりょう)を迎えなぐさめるために踊られる。長調の“北海盆唄”でにぎやかに踊るのだが、小原節は男女の恋情を哀しく唄う短調の曲である。石川さゆりの「風の盆恋歌」は「……生きて添えない二人なら、旅に出ましょうまぼろしの。おそすぎた恋だから、命をかけてくつがえす。おわら恋歌みちずれに……。」と唄う。 私は、情念こめた石川さゆりの歌唱に心情を濡らす。感傷的だと言われるかもしれないが、どっぷりと唄の情感に沈み流されてゆくのが心地よい。石川さゆりの「天城越え」や香西かおりの「はぐれ草」大月みやこの「女の港」前川清の「東京砂漠」坂本冬美の「夜桜お七」もいいではないか?…。 プロ野球中継の無い冬期間はNHKテレビ火曜夜の「歌謡ホール」と土曜夜の「BS日本のうた・あなたの町のベスト10」を楽しんでいる。ところで、私の二男は演歌に見向きもしない。彼は“ロック”オンリー人間だ。 彼は高校生のときからロックバンドを組み、音楽活動を続けてきた。仙台市内のレコード店に勤務したこともあって、アメリカのロック・バンドの古いレコードを蒐集している。 私には価値のわからない古いレコードが彼の部屋に並んでいる。 彼は「演歌を聞いても元気にならないから嫌だ」という。ロックの強烈なビート感に酔う彼だから、それも当然至極なことであろう。 雑誌の“短歌”平成12年12月号に歌人の島本正靖氏(青天所属)が「風の盆無情」と題する14首を載せていた。詞書(ことばがき)に『9月2日、ツアーよりすべがないという「風の盆」を見るため、あるツアーに参加。<こんな悲しい夜祭が世界のどこにあるのだろう?…。>もとめていたそんな悲哀感はどこにもなかった』と書いていた。氏の短歌から3首を紹介する。
というものだ。
“風の盆”は、あまりにも有名になってしまった。観光業者に利用されているのであろう。石川さゆりの「風の盆恋歌」も客の誘致に一役買っているはずである。こんな時代だから“風の盆”にむらがって利益を貪る業者が出てくるのは当り前のこと。ただ、祭りの本質まで失われるほどの騒ぎになっているとすれば、残念なことである。
よくも折れないものだと感心するほど南天は曲る。5〜6cmの積雪でも地面に接触するほど弓なりになってしまう。玄関わきに植えた7本だが、背丈が2mばかりになった。いま、葉が赤くなって、雪の庭に風情を添えている。雪晴れの午後、融けだした雪を払って立ち上がる南天に屈服しない精神のようなものを感じる。
三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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