NO-34

果つるもの何かも知らず八月の少年われは薩摩芋(さつま)かじりき

風呂敷を電球(でんき)にかぶせ蛍火のごとくに家族(うから)声もなく居ぬ

 終戦記念日である。
 昭和20年(1945年)815日。私の満6歳の夏であった。私は、この日の周辺に鮮明な記憶がある。記憶と思うのだが、後に母や祖母が話していた出来事が幼い日の記憶の補遺となっているのかもしれない。

@仙台空襲の夜のこと−−。
 昭和20710日の夜、空襲警報のサイレンが鳴った。私たち家族は近くの岩松山恵林寺の防空壕(ごう)へ避難した。壕といっても寺の前庭をスリバチ状に掘った穴である。恵林寺は里山にあって仙台市は北東の方向の彼方にあった。ボーイングB29から投下された焼夷弾(しょういだん)による火災で、その夜空はオレンジ色に染まっていた。闇を焦がす炎は、人間の深い怨念が燃えさかっているようだった。6歳の少年が怨念の火などと思うわけは無いが、今にしてみれば怨念とおもえる炎だった。
 「仙台空襲の後に船岡の火薬廠(しょう)が爆撃されるんだど…。」と祖母が言う。「父ちゃん、だいじょうぶだべが?」と私が聞く。仙台空襲の夜、父は仙台市内の病院に入院していた。あの炎の下に父がいるのだと思うと、幼い心がキリキリ痛んだ。焼夷弾が雨のように落下して火の海になった市街、逃げまどう市民の恨みや悲鳴、敵機の来襲に為すすべも無かった日本軍兵士の怨念、あるいはB29から焼夷弾を投下した連合軍兵士の敵愾心や嘲笑が渦を巻いて夜空を焦がしていたのであろう。
 さいわいに、この町は空襲を免れた。父の消息が分からなくなった。翌朝、母が入院先の病院へ連絡しようとしたが、電話が通じない。東北本線も不通で仙台市へ行く手段が無かった。家族はただ父の無事を祈るしかなかった。仙台空襲から4日後、憔悴して父が帰宅した。仙台から鉄道線路づたいに徒歩で帰ってきたのである。
 もう一つ、鮮明な記憶がある。
 815日のお昼ごろ、私は近所の子どもたちと恵林寺の山で遊び、腹ぺこで帰った。すると、近くの土木建設業の加茂組の事務所の前に付近のおじさんやおばさん達がいた。父と母と祖母もいた。ラジオで玉音放送があった直後のことである。「戦争負けだんだど…。」と父が生気のない青白い顔で言った。放心状態だったように思う。あの日はカンカンに晴れわたった夏空が広がっていた。なにもかにもが乾燥して叩けば白い粉が舞いあがるような白っぽい光景の街が静まりかえっていた。 空襲の私たち兄弟は、敗戦とは何なのかも知らずに母が蒸したサツマイモにかじりついた。
 昭和2110月、父が死去した。41歳の他界であった。私の戦後は敗戦による社会の混乱のなか、父の死による窮乏の生活でスタートした。

A第一海軍火薬工廠のこと−−。
 この町には、第一海軍火薬工廠が建設され、昭和14年から海軍が使用する火薬と爆薬の生産をはじめた。私の家族も火薬廠に就職する父といっしょに福島県の内郷村(現いわき市)から転入してきた。父は火薬廠に勤務しはじめてまもなく発病した。“柴田町史 表16-6 火薬・爆薬の生産実績と戦局”により昭和19年度の生産量を書き出してみる。(昭和14年度〜昭和21年度までの実績が表になっている。)

  砲火薬1776トン 機銃火薬773トン ロケット火薬107トン
  弾丸、魚雷、爆雷、爆弾8057トン
  爆弾導火薬107501個 演習爆弾炸薬1341020
 
などとなっている。膨大な火薬や爆薬を終戦の日まで生産していた。
 昭和19年は、神風特攻隊の出撃がはじまった年である。工員は10382名。(勤労動員学徒1681名。女子挺身隊員671名。通年動員学徒1559名などが含まれている。)現在でも、社員1万名という大工場は、そう多くあるまい。それほどの大軍需工場がこの町に存在した。
 私は86日の広島市と、89日の長崎市の平和祈念式典を欠かさずテレビで見て黙祷をささげる。今日も正午には黙祷する。原子爆弾の投下による犠牲者は約30万人。いまも苦しんでいる被爆者がいる。両市民は“核兵器廃絶”の運動を展開し、被爆地としての体験や遺跡を風化させてはならないとの強い認識を持っている。
 私も、核はもとより、地域紛争も無い世界であってほしいと切に願う。この町の軍需工場では連合軍兵士を殺戮するための火薬・爆薬を生産している。いま、その施設跡は大学のキャンパスになり、自衛隊の駐とん地になっている。航空宇宙技術研究所、ロケット開発センター、工業団地にもその姿を変えた。火薬工廠の建物といえば、自衛隊の駐とん地内に、里山の傾斜地を利用した工場の一部が廃墟となって残骸をさらしているだけである。町民の意識からも第一海軍火薬工廠は砂のように風化しようとしている。これでいいのだろうか…?。
 柴田町町史の数十ページに、その記録をとどめただけで、第一海軍火薬工廠を忘却の彼方へ押しやってしまっていいのだろうか?。とおもいはじめた。
 私は、私の父が短期間であれ火薬工廠に勤務し、人を殺戮するための火薬と爆薬の生産にたずさわったことを痛烈な「いたみ」として心に残す。父が、太平洋戦争という日本民族の恥辱の歴史に加担した人間であることを痛恨におもう。でなければ、戦後の窮乏に耐え、困難をくぐりぬけてきた家族の過去を肯定できないのである。
 私の中で、第一海軍火薬工廠が風化することはあるまい。それは、鋭い痛みとともに、生涯心の中に行き続けるはずである。私の平和を求める礎となってである。


 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭