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腹這うる牛の背に似し褐色の蔵王の嶺に遠のこがらし

 私は昭和333月、宮城県白石高等学校(宮城県白石市益岡町)を卒業した。新制高校になってからの第10回で、旧制の白石中学校から数えると第55回の卒業生になる。この母校が昨年、創立100周年を迎えた。
 同窓会で記念事業(平成6年に実行委員会が組織された。)が計画されて、生徒会館の建設、記念誌や同窓会員名簿の発行、記念式典、記念コンサートなどが実施された。そして、これらの事業を推進するために同窓生から寄付金が集められた。私の住んでいる町にも支部(船岡支部と槻木支部)があって、同窓生の協力を得た。“得た”というのは、私が船岡支部の事務局を担当したからである。
 実行委員会が設立されたころ、船岡支部の前支部長が体調をくずされた。そのためか、寄付活動のスタートが他の支部より遅れていた。変わって、私の知己の先輩が支部長に就任したのが平成10年の春である。そして「事務局を担当せよ」との“お達し”がとどいた。日頃お世話になっている先輩が苦労を覚悟で同窓会の寄付金集めに取組もうとしているのである。協力しなければならない。すでに、隣町の大河原支部、槻木支部などでは寄付活動が終了しようとしていた。
 船岡支部には約1000名の同窓生がいる。いかにして活動を展開しようか?と戸惑った。まず、白石高等学校の関係者に挨拶し、かたがた他支部の状況を聞くことにした。高校を訪問すると、なんと、校長先生は私の同級生である。それも、小学生のときに私の家のそばに住んでいて一緒に遊んだ仲なのである。春の人事異動で白石高校の校長に就任したのは新聞報道で知っていたが、迂闊にも忘れていた。<これは本腰を入れなければ…>とおもった。
 まず組織づくりである。支部長、副支部長、事務局長、事務局次長、会計局長、会計次長、幹事長、副幹事長、幹事と106名の役員(案)を携えて、平成10613日、数十年ぶりの宮城県白石高等学校同窓会船岡支部の総会を開催した。この総会で100周年を迎える母校の記念事業について理解を求め、役員を決定し、寄付活動をお願いしたのである。だが、この不景気な時節の寄付集めである。それも、平均一人あたり2万円もの協力を求めたのだから、幹事さんのご苦労は並々でなかった筈である。
 喜んで寄付に応じた同窓生が何人いただろうか?。
 そもそも、県立高等学校の施設を整備するために、100周年記念事業とは言え寄付金を集めることを疑問視する同窓生もいた。たしかに、筋道を踏んで言われれば、宮城県の予算で整備されるべきものなのである。が、経済不如意で宮城県の財政は逼迫(ひっぱく)している。県立高校の生徒会館の整備など、夢のような話しになろう。
 今後も、この地域の子弟(私の息子も同校を卒業した。)がお世話になる高校なのである。協力をお願いしてもよかろう、と私は判断した。やはり、幹事さんが積極的に同級生を訪問してくれた学年と、お届けした寄付集めに必要な書類を放り投げておく幹事さんがでてきた。事務局を担当した私としては、できるだけ多くの同窓生の協力を得たいとおもった。それが公平であろうと…。夜分に多くの幹事さんに電話でお願いもした。最終的には210名の同窓生の協力によって337万円余の寄付金を母校に贈ることができた。ありがたかった。
 1027日、平成12年度の船岡支部の総会を開催し、母校の100周年記念事業の決算について報告した。母校の同窓会本部の収入総額は約154万円に達し、所期の目的を達成した。ようやく私の100周年記念事業も終わった。
 同窓会の船岡支部の事務局を担当するようになってから、母校の校歌をうたう機会が多くなった。旧制の白石中学校校歌は「六千余尺雄々しくも、大空しのぐ不忘(わすれず)の…」とうたいだす。新制の白石高等学校校歌は「不忘(ふぼう)のふもと、水清らかに…」である。
 不忘山には蔵王連峰の一山で熊野岳などに連なる。少年時代から私にとって山といえば“蔵王山”であった。船岡から望む蔵王は腹這いになった牛の背に似ている。その麓の高等学校へ通学した3年間、私は学業よりも文学に親しんだ。文学に救いさえ求めていたように思う。
 太宰治に傾倒し、一方では三島由紀夫を読みふけった。啄木や白秋に親しみ、萩原朔太郎から村野四郎に至る現代詩の“うねり”にも漂っていた。学校をサボッて白石川の土手で本を読みふけった。目を上げれば蔵王山があった。私は蔵王山にいだかれて高校時代を生きて来たようにもおもう。

鶏頭の花くろずみて暮れゆきぬ遠夕焼けは蔵王のはるか

一拍は余燼(よじん)のごとし蔵王嶺(ね)に稲光りして後の雷鳴

 蔵王を詠んで河北歌壇に入選した2首である。
 春夏秋冬、蔵王は私の短歌の大切な素材であり、大きなテーマとなって聳えている。


 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭