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銀色の匙(さじ)の形の残雪は光放ちて蔵王水無月(みなづき)

 朝の散策に町の東にある小学校まで行って来る。万歩計で54歩ぐらいになる。陸上自衛隊の駐とん地から来る大通りを越えると水田地帯だ。宅地開発が進んで、田んぼが少なくなってきたが、まだ農村の面影がある。稲は20pぐらいに伸びてきた。白鷺が蛙をねらってゆっくり田んぼを歩いていたり、ササゴイが水面を見つめたまま身動きもせず瞑想するような姿でいたりする。路傍の大葉子は白い泡のような花をつけはじめた。茎の下から咲きのぼる。
 帰り道は集会所のわきを曲がって畑沿いに来る。大きな農家の回りには、この地方で「ひぐね」とよんでいる防風林があって尾長とコウモリが住みついている。尾長は名のとおり、尾羽根の長い鳥で飛翔はグライダーのようになめらかで優雅なのだが、鳴き声は「ギャー・ギャー」と、まるで喧嘩している猫である。T字路の角に「風見鶏」という美容院があって西側に視界がひらける。蔵王山が聳えている。雪形が表れてきた。16日のHKテレビのニュースで蔵王山に「水引き入道(にゅうどう)」の雪渓が表れた、との報道があった。「水引き入道」の知識が無かったので興味ぶかく見た。おじいさんが杖をついて歩いているような形だった。この雪形が山肌に表れると麓の農家は田んぼに水を引き、田植えを始める。入道の首の部分の雪が融け始めると畑に蕎麦の種を蒔くのだという。
 5月24日の朝も散策に出て「水引き入道」をさがしてみたが、どれが入道なのかわからなかった。スプーンの形のものが光っていた。この短歌は、そのときにできた。
 蔵王山は悠久に自然(じねん)の生命を循環させ雄大であり続けるのであろう。「水引き入道」の言い伝えも、いつまでも続く農村であってほしいものだ、とおもいながら蔵王山をみていた。

水洗のトイレあつらえ朝ごとに都会に座(ざ)する心地でおりぬ

 町の下水道工事で、わが家の庭にもマンホールが設置された。都会がやってきたのである。そこで、さっそくトイレの改造工事をした。24日から5日間で水洗トイレに改造してもらった。地元の設備工務店と建築店にお願いして小綺麗に仕上げてもらった。工事前の打ち合わせのとき、迷わずに便器はウォシュレット方式のものを、とお願いした。
 年前になるが、月に親戚の葬儀があって、風邪をひいた。この地方では、ほとんどの家庭で不幸があると自宅に祭壇を飾る。家の中の戸や襖(ふすま)を取りはずして多くの人が出入りしやすいようにする。家の中は寒い。家庭用のストーブのつや4つでは効果がない。
 風邪から急性肺炎になって仙台の病院に入院した。
20日ぐらいで快癒した。担当医から退院前に胃と腸の検査をすすめられた。チャンスなので胃カメラを飲み、大腸の検査をしてもらった。異状はなかった。
 この大腸検査が難物であった。まず、ペットボトルの大一本の下剤を飲む。これで、ものすごい下痢になる。こんなに多くの物が出て、こんなに多くの物が体内に有ったのか、と驚くほどにくだる。最後にオレンジ色の物が出て、これを看護婦が確認する。
 オレンジ色は体内に排泄物が全くないという証(あかし)なのだ。それから検査室に行く。和紙製のパンツ(お尻の中央が縦に切れている)にはきかえて検査台に腹ばいになる。と、看護婦が太い注射器にバリュウムを入れ、肛門に先端を差し込んでくる。注射器と太い針のごときものはゴムのチューブでつながっている。これを薄暗い検査室でやるのだから、看護婦は神業の持ち主である。
 隣室のガラス戸ごしに検査技師がいて、バリュウムの量を増やす指示をしながら、エックス線写真を撮る。腹ばい、左右の脇腹、腹を圧迫しての写真など、撮影枚数はかなりのものであった。腹がふくらみ、肛門からバリュウムが逆噴射しそうになったところで検査が終わった。
 それっと、トイレにかけこんだ。排泄することが、こんなにも心地良いものだったかと、おもいながら出した。出たわ出たわ。これも驚くほどのバリュウムが大腸菌内に有った。ふと、便器のわきを見ると、ウォシュレットの表示があった。「おしり」の表示を押すと、温水がやさしく肛門を洗浄してくれた。
 物質文明の進歩は、こんなところにもあったのかと、テクノロジー社会を讃えた。
 それからのウォシュレット崇拝者だから、水洗トイレの工事となれば、迷わずにそのタイプを選んだのである。
 毎朝、都会に腰をおろしているような気分で愛用している。
 ところで、わが家は三人家族だが、妻とサラリーマンの次男はウォシュレットを使用していない。私だけなのだ。
 なぜ、物質文明の恩恵に浴さないのだろうか、と不思議に思っている。
 尾籠な話しになって、恐縮である。


 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。

柴田町船岡在住・渡辺 信昭