丸森の歴史
町内には縄文遺跡を主にして、160数ヶ所の遺跡が確認されており、その中には1万年も昔の縄文早期の土器や石器が多数出土していることから、長い年月にわたり、多くの人々がこの地に住みついたことが推測される。又、阿武隈川沿いの台町古墳群は大小の古墳が230基も群集しており、そこからの副葬品は人物埴輪や鏡など東北地方ではあまり例のないものが確認され、この付近に強力な豪族がおったことを物語っている。
最近、阿武隈川畔の堤防にさくら並木を作るために遺跡を発掘調査したが、岩手県平泉で確認された柳の御所跡とほとんど変わらない、住居跡や古井戸、陶磁器などが見られその関連が注目されている。
戦国時代に入り、この地は伊達氏の領土となっていたが、隣接する相馬氏と長期にわたる争いの接点となり、いたるところにその跡を残している。 藩政時代には、丸森、金山は町場がつくられ特に金山は要害として仙台藩南端の要衝の地であり、丸森は商人町を形成し、文化経済の中心地をなった。
阿武隈川の舟運はもともと江戸の初期、福島伊達、信夫地方が天領(幕府直轄地)となったことから、この地方の貢米(お城米といった)を江戸へ回送することに始まったもので、毎年9万俵ものもめが輸送されたことで、沿岸の町村は何らかの影響を受けてきたのである。
江戸時代後期にこの米の輸送とは別に商い舟いわゆる高瀬舟が、上流の丸森地方から楮や藍玉などの農産物や林産物が下流へ、海産物や衣料・日用品などは上流へと運ばれ、この航行は明治。大正を経て昭和の初期まで続けられました。
ご意見・ご感想は、丸森町商工会<marusho@ji.jet.ne.jp>まで。
Copyright © 2000-2004 Marumori-Shokokai All rights reserved.
|